難しさの中身を分けて、必要な複雑さを残す

つかえた場所を、深さと呼ぶ前に

一度では意味の取れない文章に出会うと、難しいことが書かれているのだろうと思う。実際、慣れない考えを読むには時間がかかる。しかし、読む負担が大きいという感触だけでは、その負担がどこから来たかは分からない。考え方の複雑さなのか、前提知識の不足なのか、それとも、誰が何をしたかが文の中で隠れているのか。難しさを尊重することと、難しさをそのまま価値に換えることは違う。

3段階のヒントカード: ほどいて、限定を戻す — 1. 動きを出す; 2. 足した断定を見る; 3. 限定を戻す.
平易さのために、分かっていないことを埋めない。

仮の場面を考えよう。ある草稿に、利用方針の変更に伴う調整の実施に関する検討が進められた、とある。書き手は慎重な表現を選んだつもりだが、読む側には検討した人も、変えようとしていることも見えにくい。これを、運営委員が開館時間を延ばす案について担当者と相談した、と書き換えると、急に平易になる。しかし、それだけで正確になったとはまだ言えない。

平易にして初めて、勝手に足したものが見える

書き換えた文には、元の文になかった担当者や具体的な案が入り込んでいる可能性がある。分かりやすくしようとして、分かっていない部分を想像で埋めてしまったのだ。易しい文も、根拠のない明確さを持ちうる。だから、難解な文をほどく作業は、短い言葉に交換すれば完了するものではない。ほどいたときに新しく生まれた断定を見つける作業でもある。

この場面なら、分かっている範囲に応じて、委員会では開館時間の変更案が議題になった、と書けるかもしれない。相談の相手が不明なら、その部分を足さない。元の文章が曖昧だった理由が、調査不足にある場合も、慎重に範囲を限定したかったためである場合もある。二つは同じ直し方では扱えない。

専門用語を残す理由

一方、日常語に替えると、かえって区別が失われる用語もある。ある分野で範囲が定められた言葉を、似た感じの親しみやすい言葉へ置き換えれば、別の概念と混ざるかもしれない。専門用語を使わないこと自体が親切なのではない。読者がその言葉で何を区別すればよいかを示すことが、親切になる。

たとえば用語を残したうえで、その文章で扱う意味を短く示し、当てはまる例と当てはまらない例を一つずつ置く方法がある。説明は少し長くなるが、長さが増えたことと難解になったことは同じではない。理解に必要な長さまで削ると、読みやすい表面の下で、読者に推測を押しつけることになる。

一文だけ、ほどいて戻す

小さく試すなら、草稿の中で自分も読み返している一文を選ぶ。まず、誰が、何を、どの範囲で言っているのかを、別の紙へ素直に書く。そのあと元の文へ戻り、落ちた限定を探す。すべての場合ではないこと、ある条件の下でだけ言えること、まだ確かめられていない部分。必要な限定は、分かりやすい文のほうへ戻す。

ここで、短くなったかどうかを採点しない。主語を出したために字数が増えることも、二つの動きを分けるために二文になることもある。目標は、読む人がどこで考えるべきかを選べる文章だ。文の骨組みを探す苦労を減らせれば、その分、主張そのものへの賛成や反対に時間を使ってもらえる。

誰に渡す文章なのか

読み手によって必要な説明の量が違う点も忘れたくない。同じ分野の人へ向けた文なら一語で共有できても、初めて接する人には短い補助が要る。だから、易しいか難しいかを文章だけの性質として固定せず、誰に渡すかと一緒に考える。専門家向けの文章を、用語が多いという理由だけで責めることも、初心者向けの説明を、すぐ読めるという理由だけで軽く見ることも避けられる。

読みやすさは、反論できる形でもある

表現を明らかにすると、考えの弱い部分まで見えることがある。それが不安で、抽象的な言葉へ戻したくなるかもしれない。しかし、何に異論があるかを読者が言えるようになるのは、文章の損失とは限らない。意見が届くためには、まず何を言っているかが共有される必要がある。

難しい文章をすべて平らにする必要はないし、理解に時間のかかる考えを急いで身近に寄せる必要もない。大切なのは、その時間が考えの複雑さのために使われているかを問い直すことだ。平易さは浅さの証拠ではない。残すべき複雑さを選び取り、それ以外の霧を少し払った結果である場合もある。